半透明の大江さんが洗面所から出てきて、いつもと同じようにテーブルに向かう。見えない食パンにバターを塗り、見えない新聞を片手に頰張る。まるでパントマイムだ。私はフローリングの床に座り込み、一連の動作を眺めた。
初めて彼が現れたのはひと月ほど前のことだ。もちろん最初は飛び上がるほど仰天したし、ひどく怯えもした。幽霊が私の部屋で日常生活を送っているのだ。驚かないはずがない。しかも、その人物はここの前の所有者なのだからなおさらだ。
大江さんは判で押したような日々を送っている。六時に起きて、洗顔、朝食、新聞を読み、身支度を整える。背筋を伸ばしスーツ姿で何かの本を朗読した後、出勤する。休日は服装が私服に変わるだけで時間やリズムに変化はない。幽霊の割にずいぶん律儀なことだ。私のことは見えていないらしい。トイレや洗面所のドアを開けた際、出合い頭にぶつかりそうになることがあるけれど、互いの体は接触することなくすり抜けていく。驚くのはこちらばかりで、彼は一切ペースを乱さない。シャワーを浴びている最中、無造作に入って来られたときは悲鳴をあげた。
誰かに相談することも考えた。社長、経理の吉本さん、実家の両親。しかし話せば、以前のように精神に変調をきたしたと勘違いされるだろう。そんなの御免だ。結局、黙っておくことに決めた。
時間が経ち、この異様な状況にもずいぶん慣れてきた。こちらに干渉してくるわけでないし、彼の姿以外は何も見えず音も聞こえない。気味の悪さを除けば実害はないのだ。
きっと大江さんは死んだのだろう。たしかまだ五十五歳だったはずだ。半年前、手続きで顔を合わせていた頃はとても元気そうで、病気の気配などは何も感じられなかった。しかし、ここに幽霊がいるのだから、そういうことなのだろう。
五階建て全二十戸の小ぢんまりとした中古マンション。築十五年経過しているけれど内装はほとんど傷んでいないし、フローリングもほぼ無傷だった。壁は押しピンの跡すらなく、天井もほとんど煤けていない。大江さんが大切に暮らしてきたのだ。一人暮らしの身に45平米の1LDKは充分な広さで、間取りも理想的だ。エントランスを駆けまわる幼児はいないし、住人の質も総じて高い。早めに決めたいので、価格も相場よりいくらか低く設定されていた。掘り出し物だった。職場まで多少距離はあるものの、毎日片道三十分のウォーキングは出不精の自分にとってちょうど良い運動になる。
彼の室内レイアウトは完璧で、引っ越した後、私もほぼ同じ位置に家具を配置した。でも、そのせいで幽霊と動きがたびたび重なった。ベッドですぐ隣に寝られるのはさすがに堪えられず、最近は床に布団を敷いて眠っている。
ローン残額を考えると頭を抱えたくなる。売ろうにも、幽霊つきの物件に買い手がつくとは思えない。それ以前に、一生に一度の買い物と覚悟を決めて買ったのだ。あのときの熱量を再度生み出すことはできそうにない。これが自転車や洗濯機レベルであれば諦めもつく。しかし、私が買ったのは家なのだ。
窓の外から鳥のさえずりが聞こえてきた。シジュウカラだろうか。ベランダに出て階下を見渡すが姿は見えなかった。代わりに遠くでアブラゼミが鳴き始める。八月の朝にしては涼しく、からりとした爽やかな風が髪の毛を揺らした。風の通りが良いのもこのマンションの特徴だ。
室内に戻ると、入れ違いに大江さんがトイレへと向かった。彼のルーティンは厳密で、行動が二分以上ずれることはない。実物の彼はいつも紳士的で、売買相手としては文句のつけようがなかった。契約もトラブル一つなくスムーズに終えた。しかし、今は憎しみが先立ってしまう。
「ねえ、大江さん。申し訳ないんですけど出て行ってくれませんか?」
スーツに着替えた彼にそう話しかけてみる。でも、当然反応はない。
「ここはもう私の家なの。恨めしいことがあるなら別の場所に化けてでてよ」
やはり相手にされない。腹が立ち手元のクッションを投げつけたが、通り抜け、壁に当たった。彼は彼の時間の中で暮らしていて、決して交わることはない。準備を済ませ、いつものように朗読を終えると大江さんは玄関から出ていった。
思わずため息が漏れる。こんなはずじゃなかった。三十代も半ばを過ぎ、残りの人生を一人で生きていく決心を固めた。絶妙のタイミングでこの物件に出会うことができ、自分は幸運だと思っていた。まさかこんな落とし穴があるとは。
そうだ、今日は清掃当番だった。ぐずぐずしていられない。慌てて支度を始める。
「おはようございます」息を切らせて店に入り、そう挨拶をする。おはよう、とパソコンから目をあげた小田切社長が呟くように返事をする。今日も顔色が悪い。
十分後に経理の吉本さんが出勤してくる。最後はいつも樋川だ。一番下っ端なのだからもっと早く来なさいと言いたいが、遅刻しているわけではないので表立って注意はできない。おざーっす、と眠そうな顔で挨拶をしてくる。
書類の整理をした後、管理物件の巡回に出る。小田切不動産は社長を含め四人しか社員がいない、いわゆる町の不動産屋だ。社長が病気をしてから私と樋川の業務量はずいぶん増えた。社用車で手際よく物件を回り、大家と話をする。水回りの不調を聞き取り、施工業者につなぐ。この仕事は信頼関係が最も重要だ。雑談を手早く切り上げたいときもあるが、必ず最後までつきあうことにしている。
昼前に樋川からLINEが入った。飯一緒に食べませんか、と。断る理由もないので、いいよ、と返事を送り、相手が指定したファミリーレストランに向かう。
「あ、裕子さーん、こっちこっち」駐車場で樋川が嬉しそうに手を振っている。まるで子どもだ。
店に入ると、私は塩サバ定食を注文した。樋川はチキン南蛮定食を頼み、みそ汁を豚汁にランクアップさせた。
「奢らないよ」私は先に釘を刺しておく。
「いやだなぁ、飯代くらい自分で出せますよ」と彼が笑う。
「ネクタイが緩んでる。まさかそれで回ったわけじゃないよね」
「違いますって。昼休みだからさっき自分で緩めたんですよ。なんか疑われてるなぁ」
「どこでお客さんに見られてるか分からないんだから、外ではちゃんとしておきなさい」
「じゃあ裕子さん、直してください」と彼がテーブル越しに胸を張る。
「自分でやりなさい」
彼はわざとらしく渋い顔を作りネクタイを直した。私の小言なんて響きもしないのだろう。ただ、軽いノリが逆に受けるのか、大家や地主たちの評判は悪くなかった。コンピュータに強いので、これまで外注していたホームページの更新なども彼に任せている。決して役に立たないわけではないのだ。
二年前、寿退社した社員の代わりに取ったのが樋川だ。採用方針や基準など存在しないので、雇うかどうかは社長の一存によっている。十年以上前、私が採用された経緯もまったく一緒だった。
「それで、何か用があるんでしょ。呼び出すなんて珍しいじゃない」
「おっ、鋭いですね」
まさか仕事を辞めたいと言い出すのではないだろうか。心の中で身構える。
「社長の件です」
「社長?」
「はい。最近ちょっとヤバいと思いません?」
「ヤバいって何が?」
「ガンから復帰したのは良かったですけど、社長、明らかにヤバいですよ」
「だから、何がヤバいのよ」
「顔に死相が出てるっしょ」
「はっ?」
「それに、体から東京湾みたいな匂いがするんです。どこか生臭いような、どこか腐ってるような。うちの婆ちゃんが死ぬとき同じ匂いがしてたから分かるんです。社長は『悪いとこは全部切ったからもう大丈夫』なんて強がってますけど、あれ嘘でしょ。たぶん、もう長くないですよ」
「確かじゃないことを軽々しく口にしないの」
「確かだから口にしてるんですよ」と彼は譲らない。
言い返せなかった。たしかに社長の顔色は悪かったけれど、復帰してまだ二週間なのでそんなものだと安易に捉えていた。
「社長がいなくなったら、うちの会社大丈夫ですかね?」
大丈夫ではないだろう。四十年かけて彼がこの地区にコネクションを作り上げたのだ。社長は会社の顔であり、看板だ。私たちは彼の庇護のもと走り回っているに過ぎない。
「社長は裕子さんに会社を継がせたいらしいですよ」
「はっ? 何の話?」
「この前、裕子さんが外に出てるとき、社長が独り言みたいにそんなこと言ってたんですよ。この店を任せられるのはあいつしかいない、って」
「嫌よ。そんなつもりはない」
社長の人脈を引き継ぐことなど到底できない。私が船頭になったら船はすぐに沈むだろう。ただでさえ大手全国チェーンの脅威にさらされているのだ。
料理が運ばれてきたので、同時に手を合わせ箸を持つ。彼はしっとりと揚がった鶏肉にかぶりついた。
「でも、会社がなくなったら困るでしょ。裕子さんは住宅ローンだってあるんだし」
「余計なお世話。あなたは人のことより自分の将来を考えなさい」
「俺は大丈夫ですよ。裕子さんのことが心配なんです」
暗に年齢のことを指摘しているつもりか。
「いざというときは転職するわよ。同業種だったら仕事くらいあるでしょう。それか、扶養してくれる裕福な男性でも探すわ」
「なら、俺が扶養しましょうか?」
「いいえ、結構よ」と即座に断ると、ひでー、と彼はタルタルソースで白くなった唇で抗議の声を上げた。一回り近く年下の男を相手になんかできない。
「あなたの〈大丈夫〉の根拠は何? うちが潰れてもアテがあるの?」
「いや、特にないですけど、なんとかなるっしょ。なんなら俺が継いじゃおうかなぁ」
「あなたには無理よ」即座に返す。
「そっかなぁ。案外うまくやれそうな気もするんですけどね」
この男の話はどこまでが本気でどこからが冗談か分からない。
「だいたい、何で好き好んでうちみたいな先行き真っ暗な零細企業に入ってきたの?」
「それを訊きますか?」彼が含み笑いを浮かべる。
「何よ?」
「社長にも話したことなかったんですけど、ちょうど良いタイミングだ。裕子さんにだけは打ち明けましょう。ここだけの秘密ですよ」
「もったいぶらなくていいから」
「俺、大学が店の近くだったじゃないですか。一年目は男子寮に入ったんですけど、ノリが全然合わなかったんで出ようと思って部屋を探して、偶然入ったのが小田切不動産だったんです」
「それは知ってる」元は顧客だったのだ。
「そうしたら、綺麗なお姉さんが対応に出てきて、すごいテキパキと条件とか要望を聞いてくれて、一発で理想の部屋を案内してくれたんです。仕事ぶりがめちゃかっこよくて憧れました。痺れました。将来、その女性と一緒に働きたいなって思って」と言って彼が屈託なく笑う。
私が言葉を失っていると、いやぁ、なんか照れるな、と彼は頭をかいた。
夜、レトルトのスパゲティを食べていると、音もなく大江さんが帰ってきた。日中さまざまな人と接する仕事をしていて、家でもこれでは気が休まらない。それに、今は脳内に樋川まで住みついていて当分離れそうになかった。
「何があったか知らないけど、そろそろ成仏してくれませんか」
そう頼んでみるが、彼は歩みを留めず寝室に向かった。部屋着に着替えるのだろう。録画番組を再生するように彼は毎日ほぼ同じ行動を繰り返す。
大江さんは独身で、ここでの暮らしを楽しんでいたけれど、母親の介護が必要になったため、早期定年退職制度を利用し、田舎に帰ることになったのだ。
「ここを手放すのは残念ですけど、後悔はしていません。育ててくれた親に納得いくまで恩返しできるなんて、多くの人にはできないことですから」
彼は実直で信用できる人物で、言葉から嘘は感じられなかった。
「物件情報を公表する前に仲介すべき社員自らが手をつけるなんて、本当は良くないやり方なんです。巻き込んでしまう形になり、申し訳ありません」
購入の意思を伝えたとき、私は頭を下げた。ポリシーを曲げてでも手に入れたかった。
「愛着のある家です。知らない方でなく、あなたが買ってくれるなら安心ですね」大江さんは嫌な顔ひとつ見せず和やかに笑った。
社長に打ち明けると、これまで不満も言わず頑張ってきたご褒美みたいなもんだ、気にせんでいいから買え、と了承してくれた。
初めて物件を目にした日からわずか十日で契約を結び、その二週間後には入居した。この業界では人気物件は流星に例えられる。よそ見しているうち、あっという間に消え去ってしまう。一生の住まいなので吟味することも重要だけれど、ときには即断が必要なときもある。
思い返せば、これまであまり物欲の強い人間ではなかった。小さい頃は姉のお下がりに文句も言わなかったし、社会人になり一人暮らしを始めても無駄遣いはあまりしなかった。テレビや冷蔵庫にこだわりはなかったし、家具にも機能性以上の価値は求めなかった。それなのにこの部屋には強い磁力を感じた。これまで千を超える物件を見てきた。間取りや条件がもっと優れているところは他にもあった。しかし、大江さんの部屋は他とは何かが違った。まるで巨大な古着屋の中からぴったりの一着を探し当てた気分だった。
住み始めて四か月、幽霊が出現するまで不満は一つもなかった。両手に収まるようなサイズ感がしっくりきて、家に帰ると心の底から安心できた。しかし、今は苦悩が快適さを塗り潰している。
お祓いをすれば消えるだろうか。盛り塩は一度試してみたが効果がなかった。インターネットで神社や祈祷師を調べるが、十分と経たずに馬鹿らしくなった。非科学的すぎる。これまで取り扱ってきた物件でも心霊現象や不可思議な報告を受けたことがあるけれど、調査をすれば必ず原因に行きあたった。排水管の不調、数百メートル離れた場所での道路工事、単なる老朽化。そもそも不動産会社で働く自分が祈祷師を招いたなどということが露見したら問題だ。小田切不動産はごく限られたテリトリーで仕事をしている。小回りが利く分、噂が広まるのも早い。きっと笑い話では済まないだろう。
樋川に相談することも考えた。でも、頼りになるとは思えないし、変に恩を売られても困る。
大江さんがキッチンで夕飯の準備を始める。近づき肩を摑もうと試みるが、やはりすり抜けてしまう。映画やアニメに出てくるホログラムによく似ていて、そこに邪悪な意思や無念さは感じられない。ただ存在し、生きていたときと同じように淡々と日常を過ごしているだけだ。
自然と大江さんのリズムと合わないように生活するようになった。食事時間をずらし、入浴が重なるのを避け、寝る場所を別ける。出勤前は彼がいなくなってから自分の準備を始める。毎朝の聞こえない朗読を見届けるのが日課になっている。スーツに着替えた大江さんは何かの本を手にし、歌うような調子で読み上げる。肩を揺らし、ときには膝を曲げ、緩急をつけて読み上げている。役者が台本を見ながら演じているふうにも見える。いったい何の本なのだろう。詩吟かとも思ったが、それにしてはずいぶんテンポが速い。
幽霊なんかじゃない。
やはりすべて自分の妄想なのだろう。八年前のように頭がおかしくなりつつあるのだ。異変は半透明の大江さんだけだけれど、それ以外に思い当たる原因がない。退院してから長い間、再発の影に怯えていた。何かの拍子で脳のヒューズが飛んでしまうのでないか、次は短期入院だけでは済まないのではないか。毎日足元に埋まる地雷を踏んでしまうのを恐れながら生きていた。顧客から理不尽なクレームをつけられたとき、大きな商談を逃したとき、交際していた恋人に捨てられたとき。何かあるたびに、その事象そのものより精神の均衡が崩れることに最大の恐怖を感じていた。
傍目には問題なく働きながらも、実際は一歩一歩安全を確かめながらゆっくり進み、自らの〈領土〉を少しずつ増やしてきた。食べ過ぎなければ太らない。恋人がいなければ波は立たない。持ち家があれば護られる。しかし、今その領土が切り崩されつつある。私は対抗する手段を何一つ持ち合わせていなかった。
社長が小さな声で乾杯の挨拶を行い、暑気払いが開始される。店はいつも同じ、懇意にしている小さな居酒屋だ。
次々に運ばれる大皿から、樋川が遠慮なく一番に取っていく。若いって素敵ねぇ、と吉本さんはむしろ褒めたたえる。
ほとんど箸を伸ばさず、アルコール代わりにジンジャーエールをちびちび飲む社長を見ていると、悲しくて胸がつまった。以前は毎晩のように町内会やロータリークラブの会合に顔を出し、勧められた酒は最後の一滴まで飲み干すことが信条だったのに。一年前から比べると体の厚みが半分くらいになってしまったように映る。完治したというのは樋川の言うとおり嘘なのだろうか。
樋川は一人で馬鹿話を披露し、皆を引き込んでいく。大学時代、大型犬に追いかけられ電柱に登った話。合コンでプロフィールを盛りすぎて数か月間御曹司キャラを演じ続けた話。芸人かペテン師のようにストーリーを転がし、笑いを引き起こす。
この男が継ぐのも悪くないかもしれない。自分に社長の代わりが務まるとは思えない。樋川であれば案外苦もなくすいすいと従業員の運命を引っ張っていけるような気もした。世代交代の後、自分の居場所は残っているだろうか。
酔いが回る。疲れているのだろう。大江さんが現れてからは恒常的に寝不足でもある。それでも今はお酒が飲みたかった。ビール、ハイボール、焼酎。樋川が「今日調子いいっすね」と声をかけてきたので、まあね、と短く返す。社長は菩薩のような笑みを浮かべるだけで咎めてはこなかった。
一次会が終わり、二次会は社長を除く三人でカラオケ屋に向かった。樋川が一番にマイクを握り、ヒット曲を歌い出す。人前で歌うのが苦手な私は手拍子を打ちながらグラスを重ねた。カシスオレンジ、カルピス酎ハイ、シャンディガフ。どれもひどく安っぽい味だけれど、今はそれが口に合った。吉本さんもずいぶん酔っていて、樋川と顔を寄せ合い昭和歌謡をデュエットしていた。
夜中の十二時を回り、手を振って吉本さんと別れる。小さくなっていく吉本さんの背中を眺めていると、大丈夫ですか、と樋川が横目で訊いてきた。
「大丈夫よ」即座に言い返す。だけど、とても三十分の道のりを歩いて帰れそうにはなかった。眠たくて勝手に目が閉じてくる。かくっと膝の力が抜け体勢が崩れそうになった。
「あんまり大丈夫じゃなさそうですね。タクシー拾いますよ」と樋川が笑う。
「お願い」我を張る気力はもう残っていなかった。
彼が車道に身を乗り出し、通りかかったタクシーを止める。後部座席に座ると、樋川も乗り込んできた。
「なんで乗るのよ?」
「いや、ちゃんと帰れるか心配だし」
「なんであんたに子ども扱いされなくちゃいけないのよ」
「酔った女性を放置するのは紳士の振る舞いじゃない、って親父の遺言なんですよ」
「お父さん健在でしょ」なにが紳士だ。
タクシーの運転手が迷惑そうな顔で振り返る。樋川が勝手に私の住所を告げた。うちで取り扱った物件なので、個人情報は筒抜けだ。わざと小さく舌打ちをしてみたけれど、彼は、ふふ、と軽く笑って受け流した。
見慣れた景色が流れていく。なんだか速度がとても速く感じ、シートに沈みこむ。彼も反対側の窓から外を眺めていた。車内にアルコールの匂いが充満する。複数の思考が頭の中をあちこち巡るけれど、酔いのせいかうまくまとまらない。
マンションに着くと、先に降りた樋口が再度乗り込もうとする。
「何してるの?」
「歩くの面倒だから、そのままタクシーで帰ります」
頰がかっと熱くなる。本当に送るだけのつもりだったのか。
「……ちょっと上がっていかない?」
「えっ、いいんですか」
「見てもらいたいものがあるの」
鍵を回す手が震えた。気が触れかかっていることを正直に伝えよう。過去を知ってもらおう。樋川の気持ちがどこまで本気だか分からないけれど、お互い中途半端が一番いけない。私は〈憧れの人〉なんかじゃない。脳が作り上げた幻覚と同居するような女なのだ。
明かりをつける。珍しく大江さんがまだ起きていた。テーブルの椅子に座り、真剣な表情で見えない本を読んでいる。
「わっ!」と樋川が大きな声をあげた。「だ、誰ですか、それ?」
「えっ、見えるの?」
「だって、そこにいるじゃないですか。なんか透けてるし」彼は壁の端まで後退し、及び腰で指をさす。
「そこって、そこ?」
「そうです、そこですよ」
「そこのことよね?」
「だからそうですって」
混乱する。想定外の事態だった。彼にも大江さんの存在が認知できている。あれは私の妄想ではないのか。ではいったい。
「ど、どっきり?」
怯え切った樋川の表情を見ていると、なんだか可笑しくなってきた。
「笑いごとじゃないですよ。なんですか、あれ。説明してくださいよ」
「私もよく分かっていないの。まあ、害はないみたいだから心配はいらないわよ」
「わ、わ、こっち歩いてきた」
「大丈夫。たぶんトイレよ」
簡単にこれまでの経緯を説明する。前の所有者である大江さんがひと月ほど前から現れたこと。幽霊かは判然としないが、彼は彼で日常を送っていて、おそらくこちらとは別の世界線に暮らしていること。
「よく平気でいられますね」彼はまだ壁に張りついたままだ。
平気なわけがない。どれだけ悩んだと思っているのだ。
「良かったら泊っていく?」意地悪くそう言うと、彼は何度も大きく首を振った。
翌日、頭痛がひどかったため、数年ぶりに午前休をもらった。いい歳をした社会人が二日酔いで休ませてもらうなどみっともない。店に入るときは顔をうつむかせ、小さな声で謝った。社長は外出中で、吉本さんはいつものように電卓をたたいている。変わらぬ日常。樋川は誰かと電話をしていた。
「ええ、ええ、はい。今日の夜八時ですね。ありがとうございます。助かります」何か商談がまとまるのだろうか。すでにアルコールは分解されているようで、彼の表情はいつもと変わらない。
「裕子さん」電話を切った樋川が笑顔を差し向けてくる。大きな声が頭に響く。
「急に午前休もらってごめんなさい」
「それより朗報です」彼はこちらの謝罪を受け流した。
「何? さっきの電話のこと?」
「はい、そうです。大江さんです」
「どこの大江さん?」
「裕子さんのところの大江さんですよ」
「はっ? ふざけないで。あの人は――」
「いや、亡くなってなかったんですよ。さっき話したの本人ですもん。なんでそんなことになってるんでしょうって、大江さんも驚いてました。今夜、取り急ぎこっちに来てくれるそうです」
啞然とする。大江さんが生きていたこともそうだけれど、直接連絡を取った彼の発想に驚く。大江さんの実家に電話をしていったい何を訊くつもりだったというのだ。
「大江さん、いたって元気だそうですよ」
「でも、それなら何で家に幽霊が」と言いかけて口をつぐむ。吉本さんが聞き耳を立てている。
「それが分からないから来てくれるんじゃないですか」樋川が笑う。
夜、部屋の掃除をしながら待っていると、本物より先に半透明の大江さんが帰ってきた。いつものように部屋着に着替え、夕飯の準備を始める。食材は見えないが、手つきからすると野菜炒めかゴーヤチャンプルーあたりだろう。これが幻覚でも幽霊でもないなんて未だに信じられない。
八時少し前にチャイムが鳴る。樋川と大江さんだ。部屋にあがった大江さんは目を見開き、胸を押さえた。奇妙な光景だ。半透明と生身の同一人物が同時に存在している。
「……確かに私ですね」かすかに声が震えている。
「でしょう!」なぜか嬉しそうに樋川が頷いた。
「いわゆる生霊というものなんでしょうか?」私は思いつきを訊いてみた。
「いや、どうでしょう。本来、生霊というのは〈本体〉が寝ているときや意識がないときに現れるものだと思いますが。生霊というのはつまるところ霊魂ですから。たしか源氏物語でもそうだったでしょう。でも今、私はこうやって起きていて、この目で分身を目にしている」
「ドッペルゲンガーとか? あるいはバイロケーションかも」と樋川。
「詳しいね」私がそう言うと、昨日帰ってからネットで調べました、と胸を張る。
「バイロなんとかは存じませんが、ドッペルゲンガーとも若干異なるようにも感じます」
「じゃあ、何なんでしょう?」
「正直、分かりません。購入していただいた家に、こんな不気味なものが現れてしまって申し訳ありません」彼が深々と頭を下げた。
「大江さん、そこに座ってみてくださいよ。合体したら消えるかも」樋川が馬鹿げた提案を持ち出す。
「失礼なことを言わないの」
「いえいえ構いません。何でも試してみましょう。解決するために来たのですから」
そう言って、大江さんはテーブルに近づいた。半透明は夕飯を食べている。大江さんは手前でわずかに躊躇したが、意を決し椅子に座る。ぴったり重なるよう微妙なずれを調整し、半透明の動きに合わせる。
「どんな感じですか?」樋川が訊く。
「うーん、何ともないですね」
「席を離れてみてください」
彼が立ち上がっても、半透明はそのまま食事を続けた。
「駄目みたいですね」と大江さんが小さく肩を落とす。
「いいアイディアかと思ったんだけどなぁ。あっ、そうだ。次は話しかけてみてくださいよ。本人同士なら意思疎通できるかも」
「あなた面白がってるでしょ」樋川を窘める。
「いえいえお気になさらず。やってみましょう」
対話を試みたが、やはり言葉は通じなかった。半透明は食器を洗い始める。
「本当に申し訳ない。さぞご不快な思いをされてきたことでしょう」彼が再度謝罪する。
「顔を上げてください。これは別に大江さんのせいじゃないですよ」
「いいえ、私のせいです」と彼は断言する。
「私はここでの生活を気に入っていました。子どもはおろか結婚もしませんでしたが、一人の生活を満喫していました。一日の仕事を終え、ここに帰ってくると心底くつろげました。本当に素晴らしい部屋です。以前お話したとおり、実家に戻ることを嫌がっていたわけではありません。人生における新しい段階だと受け入れていましたし、親に感謝されるのは純粋に喜びでもありました。でも、心の片隅に未練が残っていたのでしょう。この家を手放すこと、やりかけの仕事を放り出して早期退職したこと、一人の生活を諦めること。そんな軟弱な感情がこのような中途半端な存在を生んだのかもしれません」
「そんなこと――」
「いえ、きっとそうに違いありません」彼はこちらの言葉を遮った。
「で、どうしたらいいんですか?」樋川がそう訊いてくる。
「すみません。それは分かりません。でも、こうやって招いていただき、事実を知ったことで、分身は遠からず消えるのではないかと思います。原因らしきものには辿り着きました。これまで無自覚だった未練を、意識的に断ち切ればいいのです。簡単ではないかもしれませんが、そうしないといつまでもご迷惑をおかけしてしまう。数日、数週間かかるかもしれませんが、分身はだんだん薄くなっていって、そのうち消えると思います。それまで待っていただけますか?」
「もちろんです」私は頷く。他に手段もない。
無理やり未練を捨てさせるのは忍びなくも感じた。でも、そうでないと消えないのであれば仕方ない。私はこれからも住み続けていかなくてはならないのだ。
「裕子さん、よかったですね」樋川が笑顔を差し向けてくる。
「……少なくとも、後先考えないあなたの行動力には感謝するわ」
「お礼はデート三回分でいいですよ」
「まあ考えとく」
「お、やった」
そんなやりとりを大江さんが微笑ましそうに見ている。
「ああ、そうだ。大江さん、毎朝何か朗読されているでしょう。あれって何なんですか?」
ついでに気になっていることを訊くと、彼は、あっ、と顔を赤らめた。
「お恥ずかしい。そうですよね。室内での全生活が見られているということですからね。もしかして入浴とかトイレとかも――」
「あっ、その辺は重ならないようにしていますので大丈夫です」
「お気遣いありがとうございます」
「いえそんな」私は小さく手を振る。
「朝のあれですが、お二人はポエトリーリーディングというものはご存知ですか?」
「ああ、今流行ってますよね」樋川がそう答える。
知っているのか。私は聞いたこともなかった。
「そうなんです。若者を中心にずいぶん盛り上がっています。日本各地で大会が開かれていて、優勝すれば世界大会にも出場できます」
「あれ、かっこいいですもんね。俺もちょっと興味あるんですよ」
「二年ほど前、友人の息子さんがユーチューブで人気者になっていると聞き、興味本位で見てみたんです。そうしたら言葉のリズムやイキイキとした表情に魅了されてしまって。こんな年齢ですが、恥ずかしながら私も始めてみたのです」
「いやあ、好きになるのに齢なんて関係ないですよ。谷川俊太郎だってやってるんだし」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると勇気づけられます」
勝手に会話が進行していく。
「ちょ、私だけついていけないですけど」
「ああ、すみません。そうですよね。知らない方にはイメージ湧かないですよね。ポエトリーリーディングは言葉のとおり詩を読み上げるんです。音楽をつける場合もあるし、踊ったり演技をする場合もあります。なんでも有りなんです。ただ、私の場合は音楽も踊りもなしです。親しい人へ手紙を読んで聞かせる気持ちで声に出します。感情がこみ上げるときはこみ上げるままに、揺らぐときは揺らぐままに読みます。空に向かって高らかに鳴く鳥になった心地がして、すごく気分が晴れやかになるんです」
「やっぱ自作詩なんですか?」と樋川。
「いえいえ、私にそんな才能はありません。有名な方の作品から気に入ったものを選んで読んでいます。大会に出るつもりもありませんし、もちろんユーチューブにアップする気もありません。あくまで個人の趣味なので。……まさか見られるとは思いませんでしたが」と彼は照れ隠しのように笑う。
「ああ、そうだ。今も一冊持っているので、よかったら差し上げますよ」
「えっ、悪いですよ」
「何も悪くありませんよ。この本は一番のお気に入りなので同じものを何冊も持っているんです。秘密を知られたからには我々はもう共犯です」今度の笑い方は朗らかだった。
彼がバッグから取り出した本を受け取る。
二人が帰っても半透明の大江さんは残った。いつか本当に消えるのだろうか。答えは誰にも分らない。時間が経つのを待つしかないのだろう。今夜も床に布団を敷いた。
目が覚めると、すでに彼は朝のルーティンを開始していた。洗顔、朝食、新聞。カーテンを開けると、凝り固まった体を溶かすような夏の光線が差し込んだ。
消えてない、と樋川に短いLINEを送るが、既読にならない。まだ寝ているのだろう。考えてみたら、こちらから彼にメッセージを送ったのは初めてのことだった。
半透明の大江さんが支度を終え、ポエトリーリーディングを開始する。私は隣に並び、本を開いてみる。彼の唇を観察し、見よう見真似で朗読してみる。詩を声にするのがどこか気恥ずかしく、ぼそぼそと呟くようにしか読めない。これでは朗読ではなく鼻歌だ。でも、最初は仕方ないだろう。半透明の大江さんが消え去るまでに朗々と読めるようになりたい。親しい人へ手紙を読んで聞かせるように。晴天の日に鳥が高らかに鳴くように。ここは自分の家で、どこの誰に気兼ねする必要もないのだから。