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 不思議な道でした。どこまで行っても闇夜。光はまったくありませんでした。ときどき、自分の体をそっと撫でたり、顔をさすったりしました。そうでもしないと、自分の体があるのかないのかわからないほど頼りなく、頭のてっぺんからつま先まで、透明人間と化した気持ちになるのです。

 大丈夫。体はちゃんとありました。温かい体温もある。長い髪も、両手の十本の指も、目も鼻も口もあるべき場所にありました。それでもやっぱり不安になって、顔や頭、胴体にふと手をやらずにいられないのです。

 ここはどこか。だいぶ歩いたようですが、少しも疲れはなくて、むしろ歩くほどに体は軽々としてくるようでした。羽が生えたかと思うほどの軽さ。足が地面についているのかどうかも定かではない。

 いったいなぜ、こんなところにいるのか。知らない間に井戸の底に落ちたような気分です。あるいは地球の裏側に来てしまったのか。

 家の外からだれかに呼ばれた気がして、慌てて外に駆け出してみたら、しんと冷え込んだ夜の闇が広がり、声につられていくうちに知らない路地に迷い込み、それから時間の感覚も地理の認識もなくなっていったのです。歩くほどに、自分が宙を飛ぶものになり、家のことや家族のこと、仕事のことを忘れていくのがわかりました。思い出せることといったら、私を呼ぶ声が透き通るようにきれいだったこと、声音が早く早くとせかすようだったこと。冷え冷えとした闇夜に出たとき、自分のかたわらに何者かが立ち、ふっと肩先に手を伸べた、そんな記憶もあります。

 私は、東京から電車で一時間、周辺にまだ田んぼや畑が残る郊外の街に暮らしていますが、いくら田舎といってもこんな闇は初めてです。外に出ればそれが深夜であれ、どこかに人家やマンションの灯が点り、街灯や通り過ぎる自動車の光があり、遠くの田んぼのあぜ道だって薄ぼんやりと見ることができます。それがまあ、なんという暗さ。尋常ではありませんでした。

 しかし、私はこの闇、いえ、単なる闇ではなく闇黒と言いたい空気を以前から知っている気がしました。そうでなければ、こんなに平然と歩いていられるわけがないのです。

 どこかで、木の枝がこすれる音がします。風も吹いているようでした。同時に鼻先を雪のにおいがかすめました。周囲を見回しても雪など一片も見えないのに、なぜ雪と思ったのか、おそらくは冷え込んだ二月のりんとした空気が雪を思わせたのでしょう。あるいは何日か前、丹沢山系の頂きに雪を見たせいかもしれません。

 家を出るとき耳に入った透き通った声が、またどこからか聞こえてきました。

 「眠らないでね。きっと止まり木を探してあげるから」

 「止まり木って?」

 返事はありませんでしたが、すぐ近くを風が動く気配がして、私は以前よりも速く、せかされるように歩いていました。耳を澄ますと、さわさわと無数のものが動いている。何万もの黒いものが動いている。その真ん中で、私は今度は炭のにおいを嗅ぎました。どうやら私は、黒いものに隙間なくびっしりと囲まれているらしいのです。

 盲目になったみたいで何一つ見えないというのに、闇の中に「黒の気配」がありありと感じ取れました。音もなく転がっていくのは、すすけた真っ黒のお釜、空中ではたっぷりと墨を含んだ黒い筆が踊っています。たくさんの喪服もはたはたと翻っている。カランコロンと乾いた音がして、漆の黒下駄がこすれ合いながら行進していく。炭俵から出されたばかりの炭が山積みになっている野原もある。

 ここは黒の国、黒だけの世界。

 墨染めの衣を着た顔のない僧侶たちが、低く唸るような読経の声を響かせながら私の周りを囲むときもありました。

 「ね、一緒だから大丈夫よ」

 また透き通った声がして、それは離れて暮らしている妹の声にどことなく似ていました。あるいは娘の声だったかもしれません。私たち姉妹の声、私と娘の声はとてもよく似ていたので、電話で間違えられることがしばしばでした。その声が、吸い取り紙にしみ込んだ油のように、たゆたゆと闇に漂っているのでした。

 ふいに体が濡れるのを覚えました。どうやら雨が降ってきたらしい。二月の雨は冷たいはずなのに、少しも寒さを感じない。その雨のせいでしょうか、闇の中に生気を帯びた喜び、浮き立つような歓喜と興奮のさざ波が広がっていきました。地面にしみ込む雨のにおいは生臭く、それでいて気流の隅々に張りつめた清潔さがあります。厚い毛皮で守られている獣のように、私は一気に変化した空気を鼻腔いっぱいに吸いました。その空気は私の体の底の底まで届き、眠っていたものを起き上がらせました。

 この獰猛な気分はなんでしょう。咽喉の奥から叫びに似たものが込み上げてくるのを抑えることができません。血液は私の内部で黒曜石の輝きを帯び、地中から噴き出す原油のように重くノッタリノッタリと流れていきます。

 どうやら私はこの闇の中で、黒いものに囲まれながら人間ではないものへと変身しているようでした。筋肉はきしみ、ともすれば骨が外に飛び出しそうな痛みを伴い、あまりの苦痛に悲鳴を上げそうになるのでしたが、それはただの苦痛ではなく甘い快感さえ伴っているのです。

 何か恐ろしいことが自分の体に起こっているらしい。家を出た途端に、私は違う次元に足を踏み入れたようでした。体が少しずつ縮んでいきます。激しい痛みを伴って、少しずつ少しずつ、私は人間ではない骨格へと近づいていく。やがて、私は自分の足が日本、妙に細く短くなり、地面を歩くのではなくピョンピョンと飛んでいるのを感じました。

 いま私はどうなっているのか。自分の体を確かめたいのに何一つ見えない。妹の名前を呼ぼうとしました。けれどもどういうわけか妹の名前を思い出せないのです。名前どころか顔も、笑い声も子供のころからの時間のすべてを……。妹だけではありませんでした。ついさっきまでかたわらにいた娘の名前も、顔も、彼女が着ていた服も、一緒に食べた夕食さえ思い出すことができないのです。

 「むごいわ」

 言葉にならない呻きが咽喉を突きました。かすれて濁った呻きでした。私はいつ、人間の言葉を失ったのでしょう。新聞を読み、本を読み、娘と会話を交わし、ありふれた言葉の中にいた私の中から、まるで漂白されたみたいに人間の言葉が消えてしまっている。周囲は闇、闇、闇。手探りでしか前に進むことのできない広大な闇。その黒々とした世界に、私は無数の生き物、風、木々、地のうねり、黒い物体などを感じつつもそれらに声をかけることもできないのです。

 「行きましょう」

 また透き通った声がしました。美しい淡い声でした。

 「これからあなたは、世界を一瞬にして眺めることができる大きな大きな黒い目になるのよ」

 これは神の声か。どちらにしても私は、あらかじめ定められている道を歩いているのだと思いました。こうなることがわかっていて、しばらく人間の世界に寓居していた。仮の姿で買い物をしたり、娘と遊んだり、娘の父親と笑ったりしていた、そういう生き物であったと記憶の隅に火が点りました。

 そう気付いた途端、私は自分が黒い巨大な鳥になっているのを知りました。濡れた眼球に無限の闇が映りました。もう私は地上にはいませんでした。私の耳には自分の翼が風を切る鋭い音だけが響きました。深い深い闇、真っ暗な世界を私は飛び続けました。幾日も幾十日も、行き先もわからないまま闇の中を回る私。

 どんな時間が流れているのか、漆黒の闇の中にいるはずなのに、地表のにおいだけははっきりと嗅ぐことができました。時折闇の中に闇よりも深い亀裂が浮かび、ああいま、何億年前もの氷河の奥を飛んでいるのだということがわかりました。ときに私は、鉱物がひしめき合う地底の闇も飛びました。黒光りする尖った鉱物の先端が、柔らかな羽や眼球に何度もぶつかりそうになりました。けれどもどんなに危険なことがあっても私はどこも傷つかない。不思議なことでした。

 やがて私は、自分がたったひとりで飛んでいるのではなく、周囲に同じような姿の仲間がひっそりと群れているのにも気付いたのです。

 長い時間がたったようでした。

 「ほら、止まり木よ。少し休んで下を見てごらん。大切なものが見られたら、いずれ帰り道がわかるはずよ。」

 間近で、あの透き通った声がしました。目を凝らすと、空中に黒い棒のようなものが渡されています。その棒に私はしっかりとしがみつきました。そして、はるかな闇の底を覗き込みました。

 ただ一点がほのかに明るく、それは私がいたはずの家でした。深い夜の底に、小さな部屋が見えました。まだ小学生の娘があどけない顔で眠っています。右隣には娘の父親が水色の縞模様のパジャマを着て、いつものように行儀よく胸のあたりに手を組んで眠っています。親、娘の左隣にいるのは誰でしょう。長い髪をした女……。

 私です。まぎれもなくそれは私でした。体をくの字に柔らかく曲げて、娘の肩先に手を置くようにして穏やかな顔で眠っています。

 「ね、あれが世界。あなたの大事な世界」

 下には、満ち足りたものがひしめいていました。眠りは充実して、彼らの体はゆるくほどけていました。無防備で、信頼感に満ちて、どこにもひびの入っていない姿。

 あれが私の世界。私の大切な世界。

 闇の中から覗き込む眼に気付いたのか、眠っていた女が寝返りを打ち、うっすらとまぶたを開いていぶかしげにこちらを眺めました。それからすぐに、また目を閉じました。何を見たのか……女がこちらに手を差し伸べ、小さな微笑を浮かべるのがわかりました。

 やがて私は、自分がまた少しずつ、人間の体に戻っていくのを感じました。

 キシキシとした痛みに耐え、元の体になって玄関に立ったとき、家は生暖かく私の全身を包みました。振り返ると外はいつの間にか風花。色が戻っていました。庭の裸木が寒そうに震えています。冷えきった上空の闇では、無数の黒いもの、たったいままで仲間だったものが、次はどこに向かうのか一斉に飛び立つところでした。

 私はなつかしい私の寓居に足を踏み入れます。また人間の女になって……。

 血はもう黒いものではなく、赤々と体内を流れていました。



Mayumi Inaba was a writer and poet born in Aichi, Japan in 1950. Acclaimed for her subtle, perceptive portrayals of nature and of women’s inner lives, Inaba has won many awards, including the Women’s Literature Prize (1992), the Hirabayashi Taiko Prize (1995), the Yasunari Kawabata Prize for Miru (2008), the Tanizaki Jun’ichirō Prize for Hantō-e (To the Peninsula, 2011), and Japan’s Medal of Honor for her contributions to art (2014). She died of cancer at the age of 64.